日本ボリビア協会 - Asociacion Nippon-Bolivia -
会報「カントゥータ」
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日本ボリビア協会 - Asociacion Nippon-Bolivia -
Noviembre 2006
ボリビアは心のふるさと
-食べ物に関するあれこれ-
細野 豊(詩人)
協会からのお知らせ
ボリビアの話題
ボリビア百話
じゃがいもの旅の物語
ボリビアは心のふるさと
革命の夜
親の想い、子の選択
編集後記
ボリビアには、1974年6月から79年4月まで、海外移住事業団(JEMIS)及び国際協力事業団(JICA)の職員として滞在した。最初の3年間(77年6月まで)はサンタクルス支部に勤務し、この間の74年8月にJEMISと技術協力事業団(OTCA)が合併して、JICAになった。後の2年間(79年4月まで)は、ラパスの日本大使館に、JICA職員の身分は残したまま、「大使顧問」という耳慣れない肩書を貰って勤務した。
JICA(とその前身)で過した約40年の歳月を振り返ってみると、愉快な思い出ばかりではないが、ボリビアに在勤した5年間は比較的有意義で充実した時期だったと言える。そこで、あの頃のことを食べ物にまつわる思い出を中心に掘り起こしてみようと思う。
サンタクルス在勤時代には、食べ物にかかわる思い出が山ほどある。真っ先に思い出すのが、レストラン「ドン・ミゲル」の焼肉だ。焼肉と言っても、フィレとかロースとかのいわゆるまともな牛肉はいわば付けたりで、主としてチンチュリン(小腸)、リニョン(腎臓)、イガド(肝臓)などの内臓を、四角い鉄の容器に入れた炭火の上に鉄板を置いて焼くのだ。もともとは、アルゼンチンのガウチョ(牧童)の料理だったらしく、野趣溢れる逸品である。ちなみに、このレストランの主人はアルゼンチン人だ。ぼくは初めの頃、チンチュリンが好きだったが、時が経つにつれてリニョンに傾倒するようになった。
暑かった一日が過ぎて涼しい風が肌を快く撫でる日暮どきに、「ドン・ミゲル」の中庭のタマリンドの木陰に並べられたテーブルを囲み、冷えたビールを飲みながらこの焼肉をいかにも小刀といった形のナイフと先の尖ったフォークで切り分けて食べる夕食は、南国ラテンアメリカの町にふさわしい風情があった。
その頃のサンタクルス市は、石油開発が盛んになったため、三十万人以上の人口を抱えるボリビア第二の都市に成長していたが、新興住宅地区は別として、市の中心部には家々の赤茶けた瓦屋根の上に小さなサボテンが生えていたりして、古きよき時代の田舎町の面影が残っていた。
JICA東京本部や外務省からおいでになった大事なお客様も、サンタクルス滞在中に一度はこの「ドン・ミゲル」にご案内したが、反応はいろいろだった。中には食通の方もいて、そういう人は「これはなかなかいける」と喜んで下さったが、大方の評判はさほど芳しくはなかった。「肉食獣は、獲物を捕らえると先ず内臓を食べると言われているように、一番おいしいのは内臓です。どうぞ召し上がって下さい」とお勧めしたところ、「きみ、あまり脅かさないでくれたまえ」といやな顔をされたこともあった。最近は、サンタクルス市も人口百万人以上の大都会になってしまい、2000年7月に旅行で立ち寄った折には、アメリカ風のレストランが巾を利かせていた。「ドン・ミゲル」がどうなっているか、確かめそこなってしまった。
次に思い出すのが、サルテーニャだ。これはエンパナダ(肉、野菜などを詰めたパイ)の一種で、形は餃子に似ている。栗色に焼きあがったのを見るといかにも旨そうだ。がぶりと噛むと中から香辛料の匂いいっぱいのオリーブ油が溢れてくる。サルテーニャという名前の由来は、アルゼンチン北部のボリビアとの国境に近い都市、サルタから伝わってきたエンパナダということかと推測される。サンタクルス市の旧市街のはずれ、新興住宅地区との境目辺りにわれわれ一家は住んでいたが、わが家から道路を隔てた斜向かいにサルテーニャを作って売っている小さな店があり、時々その店から買ってきて、同居人も含めた家族全員やひんぱんにわが家やって来る友人や知人たちと一緒に食べた。
もちろん、いつも焼肉やサルテーニャばかり食べていたわけではない。外国で生活してみると、日本人がいかに日本食にこだわる民族であるかがよく分かる。外国で生活する日本人にとって、いかにして日本食の材料を確保するかが常に大問題であり、このことで一番苦労するのが家庭の主婦だ。わが家も例外ではなかった。当時のぼくはそこまで気が回らなかったが、今になって「女房は大変だっただろうな」と思う。
朝食にはご飯と味噌汁が欠かせなかったし、昼食や夕食には肉も食べたが、刺身や揚げ物が欲しかった。1970年代当時、米はサンフアンやオキナワ移住地で栽培されていたので、日本米に近いもの(加州米)を手に入れることが出来たし、豆腐や蒲鉾やさつま揚げなども移住地やサンタクルス市在住の日本人たちが作っていた。蒲鉾など川魚のすり身だけで出来ており、混ぜ物が入っていないので、日本製のものより味がよい位だった。
醤油や味噌も同様に現地製のものもあったが、主として、当時既に国際ブランドになっていたキッコーマンの缶入り醤油や日本、ブラジルなどから輸入された味噌をスーパーや日本人経営の食料品店で買った。胡瓜、茄子、大根などの日本野菜もメルカード(市場)にJおばさんが出している店などで買うことが出来た。
日本食確保をめぐっては、このようにいろいろなことがあったが、中でも強く印象に残っているのが生魚のことだ。サンタクルス市は、海から遠く離れた内陸にあったので、生の海産物はたまに冷凍の蛸がスーパーに入荷する以外、まったく入手不可能で川魚に頼らざるを得なかった。サンタクルス市から数十キロ離れたサンフアン移住地近くを流れるヤパカニ河(アマゾン河の上流)の魚である。
よく憶えているのは、サンタクルス市在住のSさんと息子さんがパクーという形が鯛によく似ていて黒みがかった魚を小型トラックに山のように積んで売りに来たときのことだ。確か二月か三月の暑い盛りだった。Sさんはサンタクルスを生活の本拠にしておられたが、サンフアン移住地にも家と農地を持っていた。その家からヤパカニ河へ出向き、思いがけず大漁だったので、サンタクルスの日本人たちの食卓を賑やかにしてやろうと運んで来てくれたのだ。
パクーという魚は、形は鯛に似ているが、小骨が多くて捌くのが容易でなく、川魚特有の臭いもあったが、当時刺身にして食べられる魚はこれしかなかった。
女房が、現地に長く住んでおられる日本人の奥さん方に刺身にするやり方を教えてもらい、レモンをたっぷりかけ、山葵はなかなか手にはいらない貴重品だったので、辛子醤油で食べた。海の魚には及ばなかったが、生魚に飢えていた身にはけっこうなご馳走だった。
川魚なので、生で食べると肝臓ジストマにやられるのではないかと心配だったが、何でも「日本のさる高名な学者がヤパカニ河で調査したところ、ジストマはいないことが分かった」と実しやかに語られるのを信じるほかはなかった。あれから約30年経った今になっても、わが体内に肝臓ジストマが巣くっている気配はないので、あの説は多分本当だったのだろう。
ほかに、ドラードというやはりヤパカニ河で獲れる鯉に似た魚もあったが、これはどのように料理して食べたか記憶にない。蒲鉾やさつま揚げの材料になっていたのかも知れない。
(次号につづく)
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