日本ボリビア協会 - Asociacion Nippon-Bolivia -
会報「カントゥータ」
|
1
|
2
|
3
|
4
|
5
|
6
|
7
|
8
|
9
|
10
|
日本ボリビア協会 - Asociacion Nippon-Bolivia -
Noviembre 2006
親の想い、子の選択
-序章 本研究の動機と目的と方法について-
柏木 舞子(武庫川女子大学 生活美学研究所 助手)
協会からのお知らせ
ボリビアの話題
ボリビア百話
じゃがいもの旅の物語
ボリビアは心のふるさと
革命の夜
親の想い、子の選択
編集後記
第1節 研究の動機と目的
ボリビア共和国に、沖縄出身の日本人の移住地がある。名前を「コロニア・オキナワ」という。そこに暮らす人々の生活様式と価値観には「日本」「沖縄」「ボリビア」という、3つの文化的アイデンティティが交差している。こうした状況は「移住」という人間の空間移動と「世代の交代」という人間の時間移動によってもたらされたと考えられる。
本論文の目的は、「移住」と「世代の交代」によってもたらされた、コロニア・オキナワの人々の生活様式と価値観の変容を描きだすことにある。そのために、主たる関心の焦点を「進学」「就職」「恋愛と結婚」など、人生の折り目節目にあてることとする。その考察として、コロニア・オキナワというひとつの日系コミュニティの将来像を展望したい。
このような問題意識を持ったのは6年前のことである。大学1年生の冬、たまたま旅行した沖縄県 八重山諸島で、離島の物流と人々の経済観念に興味をひかれた。そこで、司馬遼太郎記念財団のフェローシップに応募し、それが採択されたため、八重山諸島をはじめとする沖縄県の離島地域で、フィールドワークを実施する機会を得た。大学2年次以降の長期休暇は、すべて沖縄県で過ごしたほどである。
その過程で見聞したことは多い。「もうひとつのオキナワ」――ボリビアにある日系移住地コロニア・オキナワの存在を知ったのも、そのひとつである。
きっかけは、2001年11月、沖縄県で開催された第3回 世界のウチナーンチュ大会である。この事業の一環として、沖縄県出身者が形成する各国の日系コミュニティの様子が、マスメディアによって報道された。その中で、とくに筆者の目を引いたのが、ボリビア共和国サンタクルス州にあるコロニア・オキナワであった。
それだけではない。新聞記事などから、そこに住む人々が、現在でも日本、とりわけ沖縄の文化を生活の中に色濃く残していることが分かった。テレビ映像からは、さまざまな行事の際に、日系2世・3世を中心とした若者が沖縄エイサーを行うことを知った。
これら「沖縄」そのものを彷彿とさせる素朴な生活風景を目にしたことから、海外に生きる沖縄県人のライフスタイルへの興味が呼び起こされた。すなわち「ボリビア」「日本」「沖縄」という3つの文化が、日系コミュニティの中で、どのように受容され、息づいているのか。このことに、強い関心を持つようになったのである。
さて、沖縄県民の移住の歴史は、1899年にさかのぼる。この年、26人の契約移民がチャイナ号でハワイに渡航したのである。
同じ年に、南米への移住者も日本を出発した。791人が、佐倉丸でペルーに移住した。その一部が、ゴム景気に沸いていたアマゾン流域のボリビア北部、ベニー州リベラルタ市に転住する。このことが、コロニア・オキナワ誕生のきっかけとなったというのである。
それから50年が経ち、第2次世界大戦が終わった。リベラルタ市に住んでいた沖縄を出自とする日系人たちは、米軍の支配下にある母県の人々の、苦渋に満ちた生活ぶりを知った。その解決策として、ボリビアにオキナワ村建設の構想を打ち出すことになる。そして、琉球列島を統治していた米国民政府のもとで、ボリビアへの移住を実現させたのである。という意味において、コロニア・オキナワは、19世紀における南米の沖縄移住者の起源を継いだものであるといえる。
その後、コロニア・オキナワは1998年に、ボリビア共和国政府の正式な行政区に指定され、「オキナワ村」となった。このように行政区の名称に「オキナワ」の名が冠されているのは、世界中で、沖縄県とコロニア・オキナワだけである。以来、コロニア・オキナワは「もうひとつのオキナワ」として、その名が広く知れ渡るようになっていった。
その「もうひとつのオキナワ」が、2004年夏に、入植50周年を迎える。半世紀の歴史を経た現在、コロニア・オキナワは、今後の移住地のあり方をめぐって、大きな岐路に立たされている。なかでも、最も深刻な課題のひとつが、ボリビアへの「同化の是非」をめぐる問題であろう。
たとえば、コロニア・オキナワにある「オキナワ第一日ボ学校」のカリキュラムである。この学校は、日系人子弟の通学する私立学校のひとつだが、中南米の日系人学校の中で、日本語教育に充てる時間が最も多いことで知られている。
ところが、そのカリキュラムに疑問を感じる人も少なくないらしい。さらに、
「もはや日本語教育は不必要なのではないか」
と言う声も聞かれるという。教育という、ゆるぎない理念のもとに行われるべき事業に関して、必ずしもコミュニティ全体の意思が一致していないらしいことが分かる。
その背景には、子弟に日本文化を伝えることの可否にかかわる価値観のゆらぎがあるのではないだろうか。これと同様のことは、日系人の家庭教育にもみられるといっていいように思われる。たとえば、ある日系1世は、
「日本人なのだから、ちゃんとしなさい」
というしつけの仕方をする。しかし、そのたびに、日系2世である彼の息子と意見の衝突が起こるのだといった。このことは、世代が異なると「日本人だから」という言葉の意味するところが「ずれている」ことを物語っているということではなかろうか。
これと同様、ないしは類似の、いわば「現地への同化」という現象は、今日、ボリビア以外の、世界各地にある日系コミュニティにおいても引きおこされているらしい。たとえば2003年の夏に、ボリビアのサンタクルス市で開催された第12回 汎米日系人大会において、日本語を理解する人々は、ボリビアとパラグアイの日系人だけであった。
この点では、コロニア・オキナワは、全米の日系社会の中で、むしろ「希有なコミュニティ」として注目されている。そこには、いまなお「日本」、とりわけ「沖縄」の文化が多方面に残されているのである。
つまりコロニア・オキナワは、一方において日系人社会が被っている世界普遍的な「現地への同化」という変化の方向を目指しつつある。しかし他方では「いまだ日本(沖縄)の文化を相当程度、保存している」のである。こうした地域に生きている人々は、今後どのように自らのコミュニティを導いていくのか。そのことは、世界各地の日系社会のみならず、いわゆるグローバリゼーションの大波にたゆたう21世紀の日本社会のありかたを見つめ直す上でも、一定の有効性を持ちうるのではなかろうかと考えている。
(以下次号につづく)
(なお、本研究は「旅の文化研究所」の協力を得てなされたものです。)
日本ボリビア協会 - Asociacion Nippon-Bolivia -
|
Tapa
|
Asociacion
|
Información
|
Datos
|
Misceláneo
|
Registro
|
Cantuta
|
Galeria
|
© 2005 ASOCIACION NIPPON-BOLIVIA ALL RIGHTS RESERVED